教育はできないことをできるようにしてあげること

(株)しちだ・教育研究所 代表取締役社長

七田 厚

右脳の能力を最大限に引き出す七田式教育の創始者「七田 眞」の次男として生まれ、父から事業を引き継いだ七田 厚社長。人をその気にさせる天才だという父親のエピソードや教育観、今後の展望などを伺いました。

七田式の教育は食育が重要
人間の能力にはすごい機能が備わっている

七田 厚

七田 厚(しちだ こう)

しちだ・教育研究所 代表取締役社長。七田眞の次男。1987年より(株)しちだ・教育研究所 代表取締役社長に就任。株式会社七田チャイルドアカデミー特別顧問。著書に『七田式 子どもの才能は親の口グセで引き出せる!』『七田式 頭が鋭くなる大人の算数ドリル』(共に青春出版社)などがある。

日下部先代の社長がこの七田式教育を始めたそうですが、どんなお父さんだったのでしょうか?

七田満州生まれの父は、人間は誰もが特殊能力をもっていると信じていた人だったのですが、父が家庭教師をしていた時代に、教え子の中にどんなに説明をしても、努力を重ねても勉強ができない子がおり、人間の脳は後天的に努力をすれば必ず能力が上がると思っていたことが、実はそうではないのか?と疑問をもったそうです。
また、父は20代半ばで肺結核を患い、しばらくの間、病床に身を伏していたのですが、ある日、「あと、もって1、2か月でしょう。」という医師の言葉を聞いたのです。そして、医者が見放すなら、自分なりの健康法で元気になってやろうと決意し、それから、闘病中に読んでいたとある本で体内の余剰たんぱくが病巣をつくると知っていたので、山歩きや筋トレをして体内の余剰タンパク質を減らし、いろいろな民間療法を試していった結果、余命宣告を受けていたのにも関わらず、病気を克服して79歳まで生きることができました。死ぬ間際までバーベルの筋トレ時間をつくっていたほど健康維持に努めていた人でしたね。

日下部民間療法をしていなければ、79歳まで命があったかわかりませんね。厚先生は長男ですか?

七田私は次男なんです。長男は私が1歳の時に急性骨髄性白血病で亡くなりました。子供は進行が早いようで、何かおかしいと思って病院に行ってからたった1か月で亡くなってしまったそうです。
父はその長男に1歳の時からひらがなとカタカナを教え、1歳の時点ですべて理解していたそうです。漢字も言葉をしゃべる前から教え、どんどん覚えていったようですよ。

日下部1歳で?それはすごいですね!

七田出来ないと思い込んでいるから教育しないだけの話で、実は誰もがやればできるんです。それくらい、人間の能力にはものすごい機能が備わっている。
父は自分の母を結核で亡くし、自分も結核で命が危なくなり、長男も病気で亡くしたということで、死を目の当たりにしてきたわけです。普通、教育というのは知育、徳育、体育ですが、教育しても死なせてしまっては何にもならないという思いもあり、七田式では特に食育が大事だと伝えています。

日下部七田式の教室では、何歳から教育に取り組まれているのですか?

七田6か月から始まり、未就学の間は母子同室です。たとえば、タオルを触らせて「ふわっとしているね」などと言って、五感を刺激するなど、年齢に合わせたカリキュラムを行っています。

日下部食育は教室の中でも行われているのですか?

七田食育は教室の中ではやっていません。父が七田の仕事を始めたのが昭和53年で、その当時、お母さんに向けた通信コースには食育が含まれていました。

七田式創始者 七田 眞

日下部なるほど。教室でお料理を作って出すのではなく、お母さんが資料を見ながら、食を含めて子供への接し方を学んでもらっていたんですね。

七田昭和55年に渋谷に幼児教室を開設し、昭和63年に七田チャイルドアカデミーが発足しました。それ以前に10教室くらい七田式の幼児教室ができていましたが、その半分が七田チャイルドアカデミーに入り、残りの半分は加盟されず、独立されていきました。
世間一般で、健康のために良いと信じられていることが実はそうではなく、子供に問題が出てしまっていることも多くて・・・当たり前のように言われていることが本当に良いとは限らないんですね。それを見極める目をもってほしいということで、昭和58年には「くらしの情報」という健康情報をまとめた月刊紙も出し始めました。

親に用意された道にそのまま乗るのは、主体性のない生き方だと思った

日下部淑美

日下部 淑美(くさかべ よしみ)

BODY INVESTMENT代表
フードエリート / 真実の予防医学食研究家 / 管理栄養士

プロフィール

日下部厚先生の厚(こう)という読み方は珍しいですね。

七田世界で活躍する国際人になってほしいという父の想いがあり、外国の方でも呼びやすいように“こう”という名前になったそうです。
七田式も今では海外15の国と地域で展開していますが、どの国の方もみんな“こう”という名前は呼びやすいようです(笑)

日下部15の国と地域とはすごいですね。厚先生が事業を継いだのはいつ頃ですか?

七田継いだのは24歳のときです。私は現役で東京理科大に入ったのですが、卒業に6年かかりまして(笑)。でも6年目の年はもう父の会社で週40時間仕事をしていました。

日下部家の事業を継ぐことに反発する人も多いですが、厚先生は抵抗なくすんなりと継いだのですか?

七田いえ。私の学生時代の父の印象は英語塾の先生で、高校に入学した年に父が七田式を広める仕事を始めたのですが、大学1~2年の頃に父から「この仕事を継ぐ気はあるか?」と訊かれましたが、そのとき、実は断ったんです。

日下部何かやりたいことがあったのですか?

七田特にやりたいことがあったわけではありませんでしたが、親に用意された道にそのまま乗っかるのは、自分の人生なのに主体性のない生き方だと思ったんです。それに、やっている内容がいまいちよくわかっていなくて・・・。
1~2歳で文字が読める子を育ててどうなるの?と思っていましたし、一握りの天才をつくる養成所みたいな印象があって、あまり魅力を感じていなかったんです。
ただ、「この子の知能は○歳児のままです」とお医者さんに言われていた障がい児が、普通に生活し普通学級に入れるようになるような障がい児の早期教育も行っていて、それはとても意義のある活動だと思っていました。その方法を発見したのが父であるのなら、息子である私がそれを継承していく役割があるのではと感じていたのですが、当時は若かったこともあって、断ってしまいました。
実際にやってみて思ったのは、父は決して一握りの天才を作ろうとしていたわけではなく、共働きで子供を預けて働く親御さんが、毎日20~30分程度、子供と向き合う時間を作れば、子供たちは楽々と課題をこなし、決して落ちこぼれることなく人生に立ち向かっていける・・・そんな教育を目的にしていたんだと思います。
私は当時、板橋区で風呂は銭湯通い、トイレは共同というようなアパートで下宿をしていたのですが、「新宿区のとあるマンションを東京オフィスとして借りることになったのだけど、夜や週末は誰も使わないから、そこに引っ越して住まないか?」と父から誘いがあったんです。そのマンションは風呂もトイレもあるオートロックのマンションだったので、すぐに引っ越すことを決めました(笑)。そうすると、少しは手伝わないと申し訳ない気分になってきて、少しずづ仕事にも携わるようになりました。そうこうしているうちに仕事量もどんどん増えていく・・・私は2年も留年してしまったのですが、その頃、同級生だった大学の友人達は、もう社会人2年目でバリバリ仕事をしているかと思うと、自分も一人前に仕事をしなきゃという思いもありましたね。
そして無事卒業となって半年後、七田チャイルドアカデミーができることになったのですが、今後は東京ではなく本社に戻って、こうしたい、ああしたいと、思いのたけを父に話すと、そこまで考えているならあなたが社長になりなさいということで、社長になってしまったんです(笑)

日下部なんとなくお父様に転がされていたというか、うまくやられてしまいましたね。さすがお父様、天才ですね(笑)。

七田父は人をその気にさせる天才で、結局私は“住まい”で釣られてしまったんです。島根に戻る時も庭付き一戸建ての家を購入したので、島根に戻るならそこに住めばいいし、住まないなら社員寮にすると言われ、見に行ったら、2階建ての7LDKの家だったんですよ。すぐそこに住むことにしました(笑)。

日下部ご結婚後もその一戸建てに住まれているのですか?

七田その一戸建てには約10年間一人で住み、その後結婚して家族で住むようになりました。子供が3人いるのですが、やはり自分が一人で住んでいたときより、家も喜んでいるような気がしました。その後、それでも家が狭くなり、一部屋増築したんです(笑)

七田 厚

日下部実際に事業を継承してから、自分がやる気になったのは何かきっかけがあったんですか?

七田今は社員60人くらいですが、当時は6人くらいだったので、あまり社長という感じでもなく受け入れることができました。幼児教育といえば七田・・・・とはまだなっていなかった時代でしたので、これから展開させる使命感に燃えていましたね。

国内400教室、世界15の国と地域に広がる
海外進出の糸口は翻訳本の出版だった

七田 厚・日下部淑美

日下部しちだ・教育研究所と七田チャイルドアカデミーの違いを教えてください。

七田しちだ・教育研究所は七田式の総本山で、教育方法を開発し、ノウハウを教材にして、全国に400ある教室に提供します。七田チャイルドアカデミーは、日本国内の教室展開のライセンスを持っていて、その教室の取り纏めをしています。要はフランチャイズチェーンなんです。

日下部そうなんですね。

七田当社では2000年から拠点を世界15の国と地域に展開しており、海外では原則として、ひとつの国 = 1オーナーというスタンスでやっていますが、カナダのバンクーバーは州単位、アメリカのニューヨークは1都市のみの契約です。

日下部では、その国を代表するオーナーが、その国内で展開し取り纏めるということですね。

七田そうですね。今、1000人以上で展開している国が5カ国になりました。一番多いのは中国で、6年くらいで1万人を達成し、シンガポールが2200人、タイが2000人、マレーシアが1600人、オーストラリアも1000人に到達しました。

日下部アジアなら“七田式”で通用するような言葉になっているということですね。

七田そうですね。そして今年の秋、ついにヨーロッパ進出でイギリスにオープンします。

日下部すごいですね!

七田海外のライセンスはすべて、研究所が担当しています。

日下部海外にはどうやって七田式を認知してもらっているのですか?

七田営業はしておらず、全部向こうから問い合わせがきます。1970年代に父の本が韓国と台湾で翻訳出版され、その頃は毎年のように講演に行っていましたので、そういったことも開拓の糸口になっているのだと思います。日本国中に広がったのも本を出版したことがきっかけでしたので、やはり影響力がありますね。私の本も中国語、ベトナム語、韓国語などに翻訳されて出ていますよ。

日下部私も厚先生の本を読ませていただきます。

七田4月1日に『親の思いを強制しない勇気 七田式の原点 大切なことはみな子供たちから学んだ』という長いタイトルの新刊が出ました。「息子が語る七田式創始者 七田眞の子育て!35のことば」がサブタイトルです。

日下部是非読んでみたいです。

日下部淑美

七田私が子供の頃は、七田式はまだできたばかりで有名ではありませんでしたが、自分の息子たちは、七田という名前なので“もしかして七田式教育の息子?”と言われるようになりました。私の時代よりも生きにくいだろうなと思っています。
これは七田家のルールなのですが、中学校を卒業したら親元を離れて学生寮のある高校へ入学し、寮生活をするというのがあるんです。私は広島の学校に行って寮生活をしましたが、私の子供たちはみな海外に留学しました。

日下部それはたくましく育ちそうですね。今は親元で自立しない人も多いですからね。

父亡き後に問われた真価
次世代へ事業を繋ぐことが自分の役割

七田 厚

日下部世界展開もしている七田式ですが、厚先生が今目指していることはどんなことなのでしょうか?

七田私が社長になった頃は、父が本の出版と講演活動、七田チャイルドアカデミーで教室展開と営業、研究所で教材の開発というふうに三位一体で急速に発展していきました。
社長になったばかりの頃に「10年後の未来の話をしよう」と社員も含めて会議をし、売上10億、自社ビルを建て、ボーナスは年間10ヶ月出せるようになろうと設定しました。
当時はまだ若く、10年先というとそれまでの自分の人生の半分くらいの時間に相当していたので、それくらいの時間があれば出来るだろうと・・・実際にそれは実現してしまいましたね。

日下部すごい!

七田実現できたのは父の存在があってこそのことなので、有頂天にはならず、自分の真価は父が亡くなった後に問われるので、しっかり自分を磨いていかないとと思っていましたが、父が亡くなった年はいきなり売上が3億も落ちてしまいました。15億あった売上が毎年低下していき、今期ようやく10億に復活する見込みですが、4年前には8億台まで落ち込みました。
それから、管理職のメンバーも年齢が高くなってきたので、そろそろ世代交代の時期だと考えて、今年息子を専務にしました。次世代にこの事業をどう繋いでいくか・・・ということが課題ですね。
私も社長業をしてもう30年になりますが、必要とあればあと20年はやっていこうと思っているので、その間にしっかり下を育て、ヨーロッパ開拓の道筋や基礎を作っていきたいです。
七田チャイルドアカデミーは自分が社長ではないので、どうこうできませんが、七田式創始者の思いをしっかり継承できるようにしていくことが大事だと思っています。ただし、主体性のない生き方ではなく、そこでどう展開していくかをそれぞれがしっかりと考えていく・・・そういうことを伝えていきたいですね。

日下部厚社長の健康管理法は何かありますか?

七田私が46歳のとき、父に黄疸が出て、その後2か月半ほど入院して亡くなりましたが、その間の1か月、実は私も入院していたんです。私はそれまで入院したことがなく、健康が自慢だったんですが、僧帽弁閉鎖不全症を患いました。
最初におこったのが急性心不全で、父のお見舞いで東京に行って、最終便で帰った日の明け方4時くらいに呼吸困難のため目が覚めて、このまま放っておいたら死んでしまうと思い、急いで病院に行きました。
その日から入院となり、しばらくして呼吸の方は治ったのですが、また、心不全がいつ起こるか分からないと言われ、手術をしましたが、今はお陰様で後遺症もなく、薬も飲むことなく過ごせています。
ただ心臓を100針くらい縫ったため、心臓の大きさが一回り小さくなっているそうで、体重が増えると心臓の負担になってしまうので、体重過多にならないように減量に努めています。入院した時はあっという間に体重は減ったのですが・・・(笑)普段、食事をするときに大盛りにはしないということは徹底してやっていますね。あと3~5日間断食を4~5回やりました。
それから、熱を出して仕事を休むことがないというのが自慢なのですが、普段からなるべく疲れ過ぎないように、体に負担をかけ過ぎないことが秘訣ですね。それによって次の臨戦態勢に備えることができる。また睡眠はとっても大事だと感じていますので、移動中はよく寝ていますし、普段でも最低6時間は寝ています。

日下部酷使しすぎず、緩められるところは緩める、楽するところは楽する。睡眠は本当に大事ですよね。心臓のご病気をされたときは睡眠時間が短かったのではないですか?

七田そうでしたね。永遠に健康ではないことを教えられました。だから今の課題は相続ですね。
父はその相続のことも考えてくれていて、株一つにしても相続すると現金がないのに税金の支払い額が半端ない状態になるので、きちんと考えておかないと、残された人は泡を吹くことになります。
そんなことを考えると、やっておかないといけないことがまだまだたくさんあります。
それから病気の前後で変わったことは、献血をするようになったことです。私は輸血をせずに済みましたが、手術では万が一のために輸血が用意されていました。それまで私は一度も献血をしたことがありませんでしたが、自分もしなくてはと思うようになり、機会があればできるだけ献血するようにしています。

日下部最後に、厚先生にとっての教育とは何でしょうか?

七田出来ないことを出来るようにする。これは凄いことなんです。出来ることの積み重ねが自信に繋がり、今度は誰かに教えてあげることができる。要は独り立ちできるようになるわけです。これは親離れにもなりますが、実は親のほうに抵抗があったりするんですが・・・。

日下部そのいろいろなやり方を研究開発していくことが厚先生の研究所なわけですね。

七田十人十色、百人百様ですから、一人ひとりの向き不向きを見ながらやっていくのが教育です。

日下部これからの発展も楽しみにしております。ありがとうございました。

七田 厚・日下部淑美

日下部淑美からひとこと

世の中のために、人のために何かをやり遂げようとする人ほど、自分のカラダが必要であることを知っているように思います。この世に生を受けいただいた体をどう活かすは自分次第ではないでしょうか。
七田式教育は決して天才や頭脳の為の教育ではなく、人が人として生きていくための基本を教育しているのだと思います。知育、徳育、体育の全体を支えるのは、やはり食育なのですね。

会社データ 関連リンク

(株)しちだ・教育研究所

島根県江津市江津町526-1

TEL: 0855-52-4800 / FAX : 0855-54-0006

代表者:七田 厚

七田式教育公式サイト

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